日蓮宗 海秀山 高岡大法寺 富山県高岡市利屋町

寺宝・長谷川等伯書画

大法寺所蔵
国指定 重要文化財(長谷川等伯 筆ほか)

大法寺に所蔵されている、国指定 重要文化財(長谷川等伯(信春)筆ほか)をご紹介いたします。
(文・坂輪 宣敬)
→長谷川等伯について
→重要文化財以外の大法寺所蔵作品

七字題目「南無妙法蓮華経」

七字題目「南無妙法蓮華経」 絹本金字
一幅 縦99.0cm×横39.5cm
室町時代(16世紀)

金字に金泥をもって南無妙法蓮華経の七字の題目(首題ともいう)を書き、下に日蓮聖人の花押を記している。五幅対の中央に奉縣される幅である。

七字の題目は日蓮聖人の真蹟とされるものを写しているのであるが、書いた人の書き慣れた手跡と入りまじって、花押ともども、どの真蹟によったかは判然としない。

大法寺の当時の本寺が本圀寺であったとすれば、弘安元年10月19日、または弘安3年4月13日の本圀寺所蔵の大曼荼羅のお題目、花押に多少の類似性がもとめられるかもしれない。あるいは真蹟とされる入手しやすい木版を参照したであろうか。

筆者として大法寺七世の本覚院日執聖人(天正元年・1573寂)、または「鬼子母神・十羅刹女画像」の開眼者日恵聖人(不詳)の可能性が考えられる。

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長谷川等伯(信春)筆 日蓮聖人画像

長谷川等伯(信春)筆 日蓮聖人画像 紙本著色
長谷川等伯(信春)筆
一幅 縦85.7cm×横40.5cm
室町時代・永禄7年(1564)

本図は画中下部の墨書によって、長谷川等伯(※このときの号は信春であるが、解説ではすべて等伯とする)の作とわかる。五幅対のうち、七字題目の幅以外の四幅は等伯の作であるが、そのうちでもとくに本図は丁寧に、重厚細密に描かれており、大法寺や等伯を含めた当時の日蓮宗の人たちの、日蓮聖人に対する敬慕の念を見る思いがする。

七条袈裟(しちじょうげさ)、法服(ほうふく)、横被(おうひ)を着け、礼盤(らいばん)に坐した聖人は、左手に法華経一巻、右手に桧扇(ひせん)を持ち、高座説法の態様である。

上方に二面の置色紙と首題があらわされ、天蓋(てんがい)と脱いだ沓が描かれる。したがって戸外ではなく堂内の姿である。

高座机には十巻本法華経、小鑿子(しょうけいす)、柄香炉(えごうろ)、数珠が置かれる。前机があってそこにも金襴の卓布が掛けられ、香炉、花瓶、燭台の三具足のほか六器がみられる。この六器は静岡県三島市妙法華寺の聖人画像(説法図、鎌倉時代、重要文化財)では一尊四士の仏像の前に描かれる。すなわち仏像の供えられる供養具の六器が、本図では聖人の前に描かれ、聖人が礼拝対象になっていることをうかがわせるのである。

本図は形式的にも絵画的にも聖人画像の一つの典型を示しており、私(坂輪 宣敬)は本図を含めた一軍の聖人画像を「大法寺画像の系統」と呼んでいる。これらのことについては小著『仏教美術の廻廊』を参照されたい。

なお本図下方の墨書は重要である。この墨書による、藤原を姓とし、信春の印記を捺す26歳の長谷川又四郎なる絵師が、長谷川等伯と同一人である、と判明したのは、これら大法寺などの信春関係の資料と京都本法寺の等伯関係の諸資料とが出会ったことによるのである。

本法寺の日尭聖人画像の「父道浄六十五歳、長谷川帯刀信春三十四歳筆」(元亀三年・1572の墨書)や大涅槃図の「願主自雪舟五代長谷川藤原等伯六十一歳謹書」(慶長四年・1599の墨書)などにより、等伯と信春は同じ年齢の、父を同じくする人物と認められたのである。

等伯・信春同人説については土居次義氏が早く『画説』17(昭和13年)に説かれている。土居氏はこれらを『長谷川等伯・信春同人説』文華書店(昭和39年)にまとめられている。総合的立場からは山根有三氏の『桃山絵画研究―山根有三著作集六』中央公論美術出版(平成10年)が詳しい。なお小稿「長谷川等伯をめぐる2、3の問題―日蓮宗関係の画像を中心として―」『立正大学大学院紀要』13号(平成9年3月)をも参照されたい。

なお本図は大法寺では中央首題の幅の、向かって左隣りに懸けられるようである。

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長谷川等伯(信春)筆 釈迦・多宝如来像

長谷川等伯(信春)筆 釈迦・多宝仏画像 紙本著色
長谷川等伯(信春)筆
一幅 86.0cm×40.0cm
室町時代・永禄7年(1564)

本図は七字題目の向かって右隣りに位置する幅である。

本図は釈迦仏・多宝仏の二仏を、荘厳をきわめた台座(師子座)上にあらわし、二仏の間の宝牌に七字題目を書く。以下四菩薩(しぼさつ=上行(じょうぎょう)、無辺行(むへんぎょう)、浄行(じょうぎょう)、安立行(あんりゅうぎょう)菩薩)と文殊(もんじゅ)・普賢(ふげん)の脇侍(わきじ)菩薩を描き、上方に日・月・星辰(日天子(にってんじ)・月天子(がってんじ)・明星天子(みょうじょうてんじ))をあらわし、仏の世界の荘厳、華麗な絵画化を行っている。

四菩薩が雲上に描かれること、下方に端雲(ずいうん)が描かれることなど、諸尊は虚空中に涌現の様相である。

日蓮宗には、本図と共通点のある、「絵曼荼羅」とよばれる画図がある。日蓮聖人の顕わされた文字の曼荼羅を絵画化したものである。

いまその「絵曼荼羅」を見ると、最上段に釈迦・多宝二仏をあらわし、その間に首題を金字で書き、四方に四天王を配し、順次下方に四菩薩などを描く(絵曼荼羅の項目参照)などの図相を示している。

絵曼荼羅には、二仏が宝塔の中に描かれる宝塔絵曼荼羅や、同じ幅の中に三十番神をあらわすもの、日蓮聖人を最下段(つまり私たちにもっとも近く)に描くものなど、さまざまな形式がある。

大法寺の五幅は、このような一幅の中に多くの諸尊を描く絵曼荼羅を、いわば分離独立させたものと理解できるであろう。絵曼荼羅の中に小さく描かれた日蓮聖人、鬼子母神・十羅刹女・三十番神は五幅対の中で一幅ずつ巨細を尽くしてあらわされる。

大法寺の五幅対はこの本図が法華経の仏の世界、「鬼子母神・十羅刹女」および「三十番神」が法華経の行者を守る守護神、末法の私たちに法華経を伝える「日蓮聖人」、そして「七字題目」がそれらをすべて包摂している、そう考えられそうである。

一幅の絵曼荼羅中の諸尊を何幅かに分けてあらわすという形式は、大法寺本よりも早く、愛知県実成寺の三幅対にみられる。

実成寺の三幅対は、第一幅が釈迦・多宝二仏を中心に、提婆品に説く竜女の海中涌現などの図相を描いて、仏の世界をあらわしている。第二幅は鬼子母神・十羅刹女および三十番神を描き、守護神の幅である。第三幅は日蓮聖人を中心に京都本国寺歴代聖人を描いている。

この実成寺本のうち、第二幅の鬼子母神・十羅刹女と三十番神を別幅とし、第三幅から日蓮聖人のみを描き出し、七字題目を加えれば、大法寺の五幅対になるわけである。実成寺は六条門流すなわち当時の大法寺と同じ本国寺末である。

若年の等伯、あるいはその周辺の人々は、大法寺の五幅対中の四幅を描くにあたって、たとえば実成寺本などの情報を、はたして得ていたであろうか。等伯は石川県羽咋市妙成寺の日乗聖人画像を描くにあたって、京都市本法寺の日澄聖人画像を参照している。そうしたことからすれば、実成寺本よりもさらに直接な、参照すべき画幅が当時存在したかもしれない。

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長谷川等伯(信春)筆 鬼子母神・十羅刹女画像

長谷川等伯(信春)筆 鬼子母神・十羅刹女画像 紙本著色
長谷川等伯(信春)筆
一幅 86.4cm×39.9cm
室町時代・永禄7年(1564)

鬼子母神(きしもじん)・十羅刹女(じゅうらせつにょ)と半支迦大将(はんしかたいしょう)の画像である。かつて先学による調査の際、鬼子母神と対になる天部(てんぶ)像を毘沙門天とみたようであるが、日蓮宗の鬼子母神信仰では、その配偶神は多く半支迦大将としており、またこの天部の像も左手に宝塔を持っていないことでもあり、半支迦大将とする方が適当でないかと思われる。しかしこれもまた一般的には、であるが、半支迦大将のことは特に触れずに呼ぶこともあるので、ここでは鬼子母神・十羅刹女画像としておきたい。重要文化財指定の名称は「紙本著色、鬼子母神・十羅刹女像」である。

法華経陀羅尼品(ほけきょうだらにほん)をみると、十羅刹女(10名の名前を列記する)が鬼子母らとともに、仏前において「法華経を読誦し、受持する者を擁護する」旨の誓いを述べ、神呪(じんしゅ)を説いている。

したがって鬼子母神・十羅刹女は法華経信仰者の守護神なのである。その点では後世に成立した「三十番神」と共通する。しかし守護神は守護を願い、誓いを立て、願をかける頼りとなる存在ではあるが、一面、信仰者が誓いを破ったり、信仰者らしからぬ振舞いを行ったりしたときは、悪人だけでなく、彼らにも罰を下す恐ろしい存在である。

さて法華経の経文では、十羅刹女が主、鬼子母神が従であるが、日蓮宗の信仰史の中では、やがて鬼子母神が主で十羅刹女はその娘たちのようになり、さらに鬼子母神一神の信仰へと展開してゆく。そうした過程の中で、本図は一つの位置をしめてあらわされている――半支迦大将とともに上方に大きく描かれる鬼子母神、その下方に少し小さく描かれる十羅刹女たちという形式で――のである。

江戸時代になると鬼形(きぎょう)鬼子母神(蓬髪(ほうはつ)、有角(うかく)、裂口(れっこう)などの鬼形の形態をとる)の画像、彫像の表現が顕著になる。しかし本図は未だ優美温雅な女神形の鬼子母神(右手に吉祥果を持ち、左手に子供を抱く)として描かれている。十羅刹女は一般的な中国の官女風の服装ではあるが、簡易な鎧を身につけた武装形で優美な中にも威厳を示している。持物が明瞭に描かれているので十羅刹女像の一つの基準作として貴重である。

上方および下方に端雲があるところからすれば、諸尊は空中に存在するのであり、「釈迦・多宝如来像」と同様に法華経の虚空会(こくうえ)の表現として構想されているのかもしれない。

鬼子母神・十羅刹女については宮崎英修氏の『日蓮宗の守護神』、同氏編『鬼子母神信仰』、小稿「十羅刹女信仰の源流について」(『日蓮教団の諸問題』所収)などを参照されたい。

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長谷川等伯(信春)筆 三十番神画像

長谷川等伯(信春)筆 三十番神画像 絹本著色
長谷川等伯(信春)筆
一幅 94.7cm×39.0cm
室町時代・永禄9年(1566)

三十番神は1ヶ月30日を1日ずつ、日本国と法華経信仰者を守護する三十柱の善神で、伝説によれば日蓮聖人が比叡山(ひえいざん)定光院(じょうこういん)で修行中に出現されたという。この伝説はさらに、その時の神名帳が静岡県沼津市の妙海寺に、聖人が描かせた画像が山梨県勝沼町の立正寺に伝えられていると、続くのである。

しかし実際に三十番神が日蓮宗の中で信仰されるようになったのは、竜華樹院(りゅうげじゅいん)日像(にちぞう)聖人(1269-1342)の頃からと考えられている。

大法寺には五幅対中の一幅である本図のほか、別の「三十番神画像」も所蔵されている。等伯の筆になる本図は、一段五神ずつ六段の区割の中に、坐像の形で整然と描かれている、左下の墨書に「永禄丙寅」とあり永禄9年(1566)の成立である。一方、もう1つの三十番神は、画中左下に元亀3年(1572)の寄進銘があって、本図の6年後の年記を示している。

三十番神にはさまざまな系統や形態があり、いまここでは説明しきれない。本図ともう一方を比較してみても、ほぼ同じ頃の成立にもかかわらず、立象と坐像、座配の順序次第、神名の表記、神容および男神か女神かなど、相違するところが多い。ただし守護の日と神名は同じである。これは七種番神のうち「禁闕守護(法華守護)の三十番神」と呼ばれるもので、日蓮宗の三十番神はおおよそこの系統である。大法寺檀徒の江尻潔氏の所蔵される三十番神画像も種々の相違点は別として系譜としてはこの同じ系統である。

三十番神の形態は立象の方が坐像よりも古様を伝えている(さきに述べた立正寺の古画像も立象である)ように思われるが、結論的には言い切れない。

さて本図の特筆すべき点を二点あげてみよう。一つは三十番神の背障に描かれた小画である。主に花鳥の写生画で丁寧に描かれていて、それぞれ鑑賞に値するのであるが、とくに17日の大比賨(叡)大明神の猿の絵が注目されている。後に等伯は水墨画の猿猴図(枯木猿猴図・京都市竜泉庵蔵)を描いているので、それと比較して論じられるのである。

もう一つは画幅の上部である。本図は最上部に建物の垂木の端を並べて見せ、その下の幔幕の間を空として、端雲とともに数体の供養飛天を描いている。こうした表現の三十番神画像は大変珍しく、あるいは等伯の創意工夫によるものかもしれない。この二点は本図の特筆すべき点といえるであろう。

なお等伯筆の四幅の画像の内、他の三幅がいずれも永禄7年(1564)の成立とされるのに対し、本図には前述のように永禄丙寅、すなわち2年後の永禄9年の墨書銘がある。

また本図のみ絹本である。

三十番神については前掲『日蓮宗の守護神』、また小稿「日蓮宗の三十番神」(『野村耀昌博士古希記念論集』所収)、「日蓮宗のおける三十番神について」(「日本仏教学会年報」52号)などを参照されたい。

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