日蓮宗 海秀山 高岡大法寺 富山県高岡市利屋町

日蓮宗 高岡大法寺について

大法寺概要

宗派:
日蓮宗
開山:
1453年(亨徳3年) 栄昌院日能聖人による
大本山:
京都 本圀寺
山号:
海秀山(かいしゅうざん)
寺号:
大法寺(だいほうじ)
通称:
高岡大法寺
住職:
第三十一世 栗原 啓允(くりはら けいいん)
所在地:
〒933-0927 富山県高岡市利屋町67
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大法寺の歴史

大法寺 本堂

大法寺 開創

 海秀山高岡大法寺は亨徳3年(1453年)、京都大本山本圀寺(ほんこくじ)第九世 妙勝院(みょうしょういん)日曉(にちぎょう)聖人の弟子、栄昌院(えいしょういん)日能(にちのう)聖人が、越中国開教の命を受け、越中国放生津(現在の富山県新湊市)の地に本圀寺布教所として開創された寺院である。

 当時の放生津は、すでに千戸近くの住居を有する越中国の政治・経済・流通の中心であり、日本海航路の要であった。この頃、越中国の内陸部では、一向衆がすでに急速な勢いで基盤を固めつつあり、念仏衆に対抗する形で布教拠点を確保する為には、武家の支配地であり、かつ人と物と金が動く放生津が最適地であったことは想像に難しくない。大法寺歴代譜によれば、第三世 聖主院(しょうしゅいん)日賢(にちけん)聖人の時代にはすでに境内の鐘楼堂の大鐘を鋳造したとの記録があることから、越中放生津における大法寺の基盤の確立は、先師の不惜身命の化導をもって、比較的順調に進んだものと思われる。

 そもそも大法寺は開創当初は常安寺と称していたようで、当山第九世 立正院(りゅうしょういん)日鋭(にちえい)聖人が自ら本圀寺へ登山し、改めて大法寺の寺号を授与されたとの記録がある。この第九世 立正院日鋭聖人、第十世 盛照院(せいしょういん)日行(にちぎょう)聖人(1600年)の頃には、大法寺は、越中国のかなり広い範囲にわたって、信徒の教化に成功していたようである。第九世 立正院日鋭聖人の代に小杉日澄寺が、また第十世 盛照院日行聖人の時代に富山大法寺・久々湊法泉寺が分立、それぞれ檀信徒の外護を得ている。富山大法寺のみは、この寺が富山藩前田家の菩提寺になったことを契機に末寺を離れたようであるが、小杉日澄寺・久々湊法泉寺二ヶ寺はその後も当山と本末関係を継続している。その他に、越中国の西部を中心に義常庵・義明庵・石塔庵・恵明庵の他、各地に七面堂・妙見堂を有し、大法寺の弟子を常任させ、周辺に分布する檀信徒の教化にあたっていたようである。

安土桃山時代の大法寺~大法寺と檀林~

 高岡大法寺が富山大法寺と共に越中国の西と東の中心寺院となり、越中の法華衆の要となったことで、京都本圀寺も大法寺を前田藩領内の末寺郡の中心としてこれを重要視していたようである。第十三世 円応院(えんのういん)日融(にちゆう)聖人は、中村檀林(だんりん=教団の最高学府)の能化(のうけ=檀林の指導者)をつとめて当山へ赴任している。第十四世 実性院(じっしょういん)日真(にっしん)聖人、第十五世 是即院(ぜそくいん)日充(にちじゅう)聖人も、いずれも聖人号を有していることが本圀寺から授与された御本尊に記されている。その後、第十六世 智雄院(ちゆういん)日現(にちげん)聖人の代に至って、本圀寺より永代聖跡の寺格を認められている。

 その他特筆すべき事としては、第十九世 知見院(ちけんいん)日曉(にちぎょう)聖人はその当時浄土宗から当宗への論難に対し『妙義論(みょうぎろん)』十巻を著し、これに対抗している。第二十世 観成院(かんじょういん)日全(にちぜん)聖人は、山科檀林化主(けしゅ)を経て大法寺へ赴任し、多くの弟子を育成している。

 思うに、大法寺は、歴代の住職に檀林の上首を迎え、大法寺を護持するのみならず、住職のもとに多数の弟子を育成し、檀林を進め、あるいは周辺の寺院に住職として送る役目も同時に果たしていたようである。当山の経蔵(きょうぞう)にある一切経の他、歴代住職の残された極めて多数の蔵書・注釈書の存在が、歴代の学徳の高さを証している。

江戸時代以降の大法寺

 江戸時代における当山は、本寺京都本圀寺との強い結びつきを持っていたようで、法類(ほうるい)の点でも、求法院(ぐぼういん)檀林・山科檀林・中村檀林を中心とした法類の影響が強かったようである。本圀寺・妙顕寺(みょうけんじ)の貫主(かんす)猊下(げいか)がたびたび大法寺を訪れ、越中巡鍚(じゅんしゃく)の拠点としている記録もある。

 明治初年、大法寺は、高岡大火によって全山焼失の事態を迎えるが、第二十五世 髻中院(けいちゅういん)日珠(にちじゅ)聖人、第二十六世 斯中院(しちゅういん)日洞(にっとう)聖人の手腕によって数年のうちに再建されている。ちなみに当山は第二十五世の代に永代緋紋白(えいたいひもんぱく)の寺格を授与されている。

 この頃から当山の住職の法類に変化があったようで、明治初年から数回に渡って身延山法主猊下が当山に巡鍚され、檀信徒の教化にあたられている。身延山 第七十三世 文明院(ぶんみょういん)日薩(にっさつ)聖人、第七十八世 智等院(ちとういん)日良(にちりょう)聖人が大法寺に滞在され授与された御本尊が数多く檀信徒のもとに残されている。因みに身延山 第七十八世 智等院日良聖人は、大法寺 第二十三世 慈沾院(じでいいん)日梁(にちりょう)聖人の法孫(ほうそん)にあたり、その仏縁もあって、身延山門再建の折に、当山の檀家を中心に形成する富山県西部各地域の信行講中が、そろって寄進を寄せている。現在も久遠寺祖師堂縁側高欄の擬宝珠金具に刻まれているのは、その檀信徒講中講員の芳名である。この事をもってしても、当時の身延山と大法寺の強い結びつきを想像することができる。これら各地の信行講中の大半は現在も存在し、活発な信行活動を続けている。

 前述したように、当山第二十三世の頃から住職の法類に変化があったようで、住職に授与される御本尊も身延山法主猊下のものが増加するのもこの頃である。ことに第二十六世 斯中院日洞聖人は、当山から本山根本寺へ、また第二十七世 瑞中院(ずいちゅういん)日芳(にっぽう)聖人は本山孝勝寺並びに本山竜口寺へ普山されている。住職の法類が通・潮師法類へ変化したのはこの頃であろうと推測され、現在も当山は潮師法類に籍を置いている。


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